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22年4月 ロボット主義
 まず共産主義が資本主義よりも先に倒れ、今、資本主義も風当たりが強く、行き詰まってしまったようだ。
 管理でも自由でも、幾何級数的な人類と算術級数的な地球とのギャップを埋められなかった。二律背反というか、私は問題解決に対して1次元でしか考えられない。だから、その他の方法が折衷策に過ぎないと思える。既に共産主義的な資本主義も資本主義的な共産主義も試みられているし、シーソーの両端でだめだったものが、その折衷ならば解決になる、という気がしないのだ。 ただサーフィンのようにバランスを取って、少しでも遠くに波乗りするしかない、ということではないだろうか。
 要は 「管理された自由」 だ。 野生でもブロイラーでもない、牧場のようなものがそれなのかもしれない。
 人間からロボットにシフトした場合にはどうなるのだろう。新たな解決策の直線が引かれるのだろうか?ロボットによって、完璧な資源配分、本当の創造が可能になったとしたら、人口はどのように推移するのだろうか。
 その新たな直線においても、結局バランスを取る必要が生じそうだと思うのだが、いずれにしても、仮に人間のクリエイティブが不要ないしロボットのそれよりも陳腐、ということになったとしたら、人間は、 「ただ生きているだけ」 ということになるのだろうか? 例えば今日の私のように。 

22年4月  何故少子高齢化に
 2011年度には、国債以外も含めた国の借金が1,000兆円を超えるかもしれない。また、世界的には資源インフレの兆候が認められるだろう。私は1,000兆円を合図に、外貨を含めたインフレ対策に踏み切ろうかと考えている。対策するほど財産はないが、何とか借金をしまくって、一か八か突っ込んでみようかとも考えている。
(結局いつも通り模様眺めだろうが。)
 さて、少子高齢化が重しであると言う人がいる。現役世代は少子高齢化にサンドイッチされているとでも言うのだろうか?しかし私は、少子高齢化が、ソフトランディングを目的とした実にうまい仕組みなのだと考える。 ハイパーインフレを相殺し、ハイパーの取れたインフレで済ませるかもしれない。国内の農地だけで養える人口は数千万人のようだが、万一穀物・資源の輸入が困難になったとしても、緊急事態を軽減できるのではないだろうか。
 少子高齢化を止める政策はあるはずだし、それは可能でもあろう。しかし、それが自然の摂理に反するやり方ならば、長くそして広い目で見れば、一層窮することになるだけなのかもしれない。少子高齢化は、社会が病んでいるのではなく、社会の正常な防衛反応であると考えて、まずは肯定することから始めるべきではないだろうか。
 仮に、少子高齢化が重しであるとしても、それは、崩壊を防ぐための重しなのだ.。

22年4月   事業ドメイン
 自らのポジションを確立しなければ、存在などは不可能だ。それは、事業ないし企業であっても生命であっても違いはない。 ただ両者の違いは、最初に自分でそれを決めたかどうか、つまり始まりの違いに過ぎない。始まった途端に生態系や企業社会に組み込まれ、成長したりDNAを結合させたり、自己増殖する場合さえあることは、事業も生命も同じなのだ。
 また、ブランドや信用はあるにせよ、事業ドメインには引力が直接働かないが、それこそが始まりにおける独立性の証と言えるのかもしれない。いずれにしても、 相対的に必要とされるポジション、つまりドメインを維持する必要がある。存在には補欠などありえないのだ。
 とにかく、事業ドメインについてだけは、最初に自分で決められるわけだ。
 さて、観点は2つある。
 そこにやるべきことを求めるか、やりたいことを求めるのかだ。

22年4月 DNA同一性障害
 
 ヒトゲノムの解析は終わったのだろうか? DNAの中には、自分が存在する意味だとか目的だとかは書いていあったのだろうか?
 自分はDNA同一性障害だったのかもしれない。自分のDNAは特別なものだと思っている。思いたい、思わせて! 思ってはダメ?...
 親にもプレッシャーをかけられたことなど全然なかったのに、どうして こんなに怯えてきたのだろう。

 DNAは、きっと素直に読むべきものなのだ。

 例えば宝くじの抽選を待つように。 
 宝くじの番号にせよ製品の品番にせよ、ただ違いを表す記号に過ぎない。
 そこに、どんな思いを読み取ることができようか。


22年4月 背中に翼は生えない 手が翼に変わるのだ 進化の神は人魚の魔女
 一卵性存在のさみしさから、騒々しいほど様々な感情や色々な自分で交響楽団を気取る。引力はそのさみしさの証拠だし、時間はどの時代にも満足できないわけでなく、たださみしいから探し続けている。時間と空間は、たぶん同じ概念なのだろう。それは、鉄格子のような座標軸のアミダくじであり、何もかもをサイコロステーキにしてしまう。
 どうせサイコロステーキなら、欠点も積み木のように組み替えて、全部取り替えてしまうことはできないだろうか。観光客の神秘が現地人の日常であるように、宇宙の果てから果てへ、不思議と不思議を交換することができれば、すべてが明らかになるのだろうか?
 宇宙のエントロピーは、壮大なリコール作業のまっ最中、ということなのかもしれない。磁石のN極とS極のように、長所と欠点をどこまでも切り離すことができないなんて、そもそも最初から矛盾していたのだ。その矛盾を崩していくことこそエントロピーなのだとしたら、それを乱雑だなんて、まるで冗談だ。
 人は、長所という剣と欠点という盾を与えられた剣闘士であり、剣を振り回したくて仕方がないし、本当は盾に隠れていたいのに、褒められる時はまとめて褒められ、裁かれる時は一緒くたに裁かれるのだ。リコールを望むのはもっともなことだろう。

 “融合”はマクロの現象であり、極小では決して“結合”を超えることはない。位置エネルギーがゼロということは、ただの行き止まり、結合という壁、もうその先には行けない、融合はできない、というだけのことなのだ。
 私にとっての絶対零度は、もう二度と上がることがないということだ。例えそれが結合に過ぎないとしても、もう二度と離れることがない、と言えなければならない筈だ。

 孤独は何罪だろう。どうやら禁固以上、極刑以下というところらしい。
 人生は、命のお盆をひっくり返さないように、ひっくり返さないように運ぶ、慣れないウェイターだろうか?

 おれにとって、時間は途中から始まり、たぶん途中で終わる。途中からしか覚えていないし、途中までしか記憶することができないだろう。きっと最後の仕事の結末を見ることはないし、もしも来世やあの世があるとしても、たぶん途中からだ。
 
 人口増加とは、地球が、人の海の中で相対的に無人島化していくことだ。無人島では、格差より均一が良く機能するだろう。競争には地平線が良く似合う。その先は曖昧ではあるけれども、とにかく端から端まで走りまわれそうなフィールドが必要だ。そこが絶対的に狭すぎる、または相対的に手狭になれば、競争など成り立たない。だからと言って、自然に公平という理想が成立するわけではなく、ただ均一になるのだ。お腹が空くとしても満たされるとしても一緒。種という命綱で結ばれた状態と言える。共通の危機が訪れる時、個性はその役割を失うのだ。そして、まさに喜び2倍、悲しみ半分ということになる。注意しなければならないのは、1.5倍と半分ではないということだ。これは言葉の綾ではない。仲間の喜びは、心から喜ぶことができる。しかし、仲間の本当の痛み、悲しみを、同じようにこの身に受けることなどできないのだ。人は悲しみに対して無力な傍観者となる。まさに代われるものなら代わってあげたいところだろうが、悲しみの委任状を誰も知らない。


                        

バタ足で行く!

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